THE SHAMPOO HAT「蝿男」@BS2

昨日のBS2の深夜に放送されていたのを観た。
舞台では観たことないが、ちらしを見て名前は知っていた。でも、いろいろ評判を聞いて、なんとなく今まで食指が動かなかった。脚本・演出の赤堀雅秋横内謙介植本潤のインタビューに答えていたが、どうも当初はお笑いの道へ進みたかったらしい。

インタビューの内容から見ると、ディテールに凝ったワンシチュエーション演劇で小劇場的ノリを否定して、青年団のような現実の空間に近い舞台配置で同時に人がしゃべったりすると言う。また、舞台で人が突然死んだり、悪意がある内容なので、大人計画と比較されたこともあったようだ。放送を観た後では、青年団平田オリザ箱庭ワールドよりも、弘前劇場松田正隆の人間関係を重みを置いた、リアル演劇に近い。
また、交流があると話していた、最近のナイロン(ケラ作品)のサスペンスコメディ(?)に近いものを感じる。KERA MAPの「砂の上の植物群」に赤堀自身が客演で出ていたので、なんとなくオーバーラップした。


赤堀氏は観客には笑いを求めているらしいが、「蝿男」を観ても全く笑えなかった。
エンターテイメント要素が少なく、リアルな舞台を志向しているので、TV放送には向かない点は認めるが、それを差し引いても面白いとは言えない。もちろん狙っているのはコントやギャグで爆笑するような「笑い」ではなく、鼻先でクスっとするような「滑稽な笑い」であることは理解している。

インタビューの赤堀氏の発言を聞くと、ニュースで残酷な事件の内容をアナウンサーが淡々としゃべるギャップが笑えると言う。俺もそういう部分があるので、狙っているところは理解できるのだが、残念ながら「蝿男」で人があっさり死ぬシーンを見ても、笑えない。ケラは登場人物をあっさり殺す(わざと滑稽な形で)ことによって、悪意のある笑いを出そうとしていて、多少は成功しているように思うが、THE SHAMPOO HATはその1/100も表現できていないように見える。


ここからは俺の持論だが、人の死そのものが滑稽に感じるかどうかは、その死が自分にとってリアルかどうかがかなり関係していると思っている。

物語で創作上の人物が死ぬことによって、感情移入すれば泣くこともできるが、現実の死は周りに見せるために演技しない限り、泣けそうにない。むしろ、死の突然さゆえに、かえって笑うこともある。創作の死でも、モンティパイソンのコントにあるような、腕が取れて、ピューと血が飛び出るとか、作り物の表現の過剰さによって爆笑することはあるが、これは人の死そのものに笑っているわけではない。

有名人の死でもだいたいそう。不謹慎かもしれないが、突然の死の衝撃はあるものの、栄光をつかんだ人物のあまりにもあっけない死と無常さにどうしても滑稽に思ってしまう。

最近では、サモ・アリナンズの倉森勝利の死。(死因は明らかにされないが、厚い唇に口紅を塗ったメイクでいつものぐだぐだなしゃべりと小松の笑いながらのつっこみが印象に残っている。今でも彼の事を思い出すと笑ってしまう)
彼の作った作品がもう見れないのは残念だが、それはそれ。

多少ネタバレになるが、「蝿男」でも出てきた岡田有希子の自殺など、最たるもの。現役アイドルがビルから飛び降りて、綺麗な顔がぐちゃぐちゃ(現場を実際に見たわけではないが)になるギャップと、神話化されてファンが後追い自殺をするなど、滑稽としか言いようがない。

また、沖雅也が自殺した後の日景氏の泣き顔の報道に笑うなと言う方が無理だろう。

他人の死だから笑うんだというかもしれんが、親族の死でも俺は一度も泣いたことはない。さすがに人目があるので、大声で笑ったりはしないが、なんて人はあっけなく死ぬんだと(生きていた頃の肌と死体=「モノ」となった死後硬直した冷たい肌のギャップに)滑稽と思ったのは事実である。

笠井潔の「哲学者の密室」で、矢吹駆は死を待つのみの病人の死体のような肌は生きているのでもなく死んでいるでもない、死につつある状態という表現があったが、やはり死んだ人と生きている人には圧倒的な差があり、そのギャップは滑稽という表現しか、俺には思いつかない。

もちろん、THE SHAMPOO HATは死の滑稽さのみを表現しようとしているのではなく、生きている人間の行動でも滑稽さを出そうとして、ある程度成功はしている。ただ、横内謙介が言うように悪意があり、金を払ってまで、舞台を観に行きたいとも思えない。かつて転位21を観た後のようにスズナリを出て、気持ちがどんよりするのもあれなんで。