幻の湖

幻の湖 (1982年) (集英社文庫)

幻の湖 (1982年) (集英社文庫)

北から来た人がお宅訪問に来た時に、見たいというのでDVDで久しぶりに観る。
映画館ではめったに映画を観ない人なので、映画館で同じ映画を2度観ることはまずないのだが、この映画だけは3回以上観ている。封切後すぐに打ち切られ、封印されていたためビデオ化されなかったので、映画館でしか観れなかったせいもあるが。今は亡き自由が丘武蔵野館で幻の映画祭みたいな感じでよくやっていた。

原作もあるはずで、初めて観た90年代当時古本屋で探したが、ついに見つからなかった。
先週観た時に試しに検索してみると、古本屋でネット販売していたので、注文したら在庫があったみたいで、すぐ届いた。中古で色あせているのにもかかわらず、当時の定価よりも多少プレミアつけてあり、手数料と送料合わせると2倍近い値段だが、それでも800円以下と今の文庫の値段に比べたら安い。世の中は需要と供給のバランスで成り立っている。1309が上海総合指数を無視して、プレミア価格で売買されるのも買いたい人がいるからだ。しかし、探しているものは必ず見つかる便利な世の中になったものだ。

文庫で約330頁あるが、ストーリーがわかっているので、すらすら読めてしまい実質2日で読めてしまった。

橋本忍が書いているので、基本的には映画の脚本とほぼ同じだが、細かい描写があるので、映画のような不自然な感じがしない。例えば、映画では石仏をローザと一緒に観に行ったお市が「この石仏がローザに踏ん切りを?」という台詞が唐突で映画館で何人かの笑いを誘うが、原作を読むと同じ台詞だが、説明描写が前後にあってそれほど変ではない。

倉田とお別れのデートをしていたはずの主人公が、沖の島の反対側を見て突然泣き叫んでから、長命寺の石段を登る時には倉田と結婚することになったという台詞が唐突すぎて、妄想かと観ている人に思わせるが、原作を読むと、倉田も一応納得済みということがわかる。間のシーンがカットされているので、唐突に見えるのは無理もない。

長尾吉康に似た晒し首を見たおみつが信長に暴言を吐き、その後宙吊りにされているときに長尾が船で出てくるのを誰もが不思議に思うだろう。これは原作を読んだ人に後から聞いていたので知っていたが、晒し首は吉康の弟であり、映画でそれを理解するのは無理な話。原作を読めば確かにわかるがわかりにくい。

映画と原作と大きな違いは、主人公が一度実家に帰るところ。シロの復讐を決意し、両親や友達に最後の別れをするために帰省するのだが、まるまる一章分カットされている。おそらく時間的な制約だと思うが、某サイトでは映画のシーンにない田舎の風景に南條玲子が写っている写真があったので、帰省シーンは撮ったが後でボツとなったのかもしれない。そうでなきゃ、役者をわざわざ琵琶湖でない土地に移動させるとも思えないし。

このシーンがあるのとないとでは、かなり映画の印象が違ったと思う。原作では、主人公が意外に冷静に自分の行動の後の結末を予見していたのに、映画ではそれが全く感じられない。南條の名演技(?)もあって、直情的な彼女の一面しかうかがいしれない。

結局、映画「幻の湖」が初めて観る人に変に見えるのはシナリオのせいというよりも編集のせいだと思う。おそらく上映時間的な制約だと思うが、必要な描写がカットされているので間に入るべき主人公の心の葛藤の描写がなく、よりサイコなイメージが増幅されている。それがこの映画の魅力というか、ファンを虜にする麻薬的な要素を産み出す効果になったと思うのだが。

最後のクライマックスは同じといえば同じだが、琵琶湖大橋のシーンと最終章は章がわかれていて、映画のすばらしいカット割は予想できない。あの映画史上最高とも言えるカット割を、その効果を予測して編集したのなら、その編集担当はテリーギリアムのような天才かキチガイだと思う。
しかし、俺は全て時間的制約による編集と想像している。東宝50周年記念という映画でそんな実験的な試みをするやつがいるとは思えないからだ。一番予算がかかっていると思われる豪華キャスト陣での時代劇シーンだが、原作ではわずか10数頁で長尾の語りの一部としてしか描かれていない。50周年ということで、映画としては華を入れたいので、ストーリーのバランスに関係なく、無理矢理映像を作ったとしか思えない。そのために、本来あるべきシーンがカットされたと俺は推測している。

だが、これらのおそらく時間的な制約による編集が、全てこの映画の未来を決定づけ、映画史に残る傑作・怪作にしたてたと俺は信じている。この映画は後世に伝えるべき作品だと思う。たとえ、琵琶湖がなくなり、太陽系が消滅しようとも。